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「Face To Face」NO.48「人とつながり、自然とつながる共感」

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高35回生 山田恭嗣(きょうじ) 
飛松中学卒 
サッカー部 
慶応義塾大学 文学部 
人間科学学科 
テーマパーク勤務


―サッカー部―

 「6周!3周!1周!」今日もサッカー部の先輩の声が神撫台のグランドに響く。高校から初めたサッカーは奥が深く、楽しかった。
 
  だが、一年生には、練習が終わった後に、『5分後』という伝統の別メニューが待っている。6周、3周、1周とラップタイムを上げグランドを走り、その後は厳しい筋トレ。純粋に自分の身体や精神と向き合う初めての体験だった。辛い練習だったが、仲間と一緒ならなんとか乗り越えることができた。
 
 三年生の時、市民大会で決勝まで残った。保健体育の授業中に「サッカー部がすごいことになったぞ!山田、説明せい!」と先生に言われた。その時、「いや、俺は補欠なんでいいです」と答えた。「何言ってんだ、チームのことじゃないか!」と叱られ「決勝に出ることになりました」とさらっと報告した。
 
「自分は、正直サッカーが上手ではなかったし、怪我が続いたこともあって補欠でした。でも、たとえ補欠だったとしても、チームや仲間の事を、どうして自分の事として話ができなったんだろうって、今もちょっと後悔しています。カッコ悪かったですね。」
 
 そんな思い出もあるが、三年間頑張りぬいたことが後の自分の自信につながり、仲間と何かをする喜びを知ったことは間違いない。
 
―ダンスー

 勉強に打ち込んだのは浪人してから。経済や経営学ではなく人間科学を目指したのは、社会を経済の側面からではなく、人をもっと深く知りたかったからだ。入学後は興味のある講義を手あたり次第に受講した。
 
 講義以外に、もうひとつ興味を持ったことがある。ダンスだ。
 
 「僕が大学に通っていたころは、ちょうどマイケルジャクソンの全盛期。当時流行りのカフェバーで見たマイケルのプロモーションビデオは衝撃的でした。」
 
 すぐにジャズダンスサークルに入部。ブレイクダンスを習ったり、2年生になると、演劇の振り付けを頼まれたりもしていた。
 
 「あの頃は、ヒップホップもまだありませんでした。男性が踊るなんてちょっと恥ずかしい時代でしたね。東京に出てきて、まわりに知人がいない環境だからできたのかもしれません」
 
 演劇の振り付けでは、新たな発見もあった。仲間をどう輝かせるか。仲間のために作った振り付けを、みんなが頑張って練習してくれ、誰かに観てもらう。その達成感と面白さを知った。
 
「演劇終了後のアンケートで『今回のダンス、カッコ良かったです!』なんて書かれると、自分自身が踊って褒められた時以上に大きな喜びを感じましたね」
 
 ジャズダンス以外に、民族舞踏研究会にも所属していたが、これも奥が深く、ルーマニアに行って国立舞踊団でルーマニアの民族舞踊を習った。
 
 浦安の某テーマパークには、吹奏楽やダンスなど一般のチームが参加できるプログラムがある。三年生の時、このプログラムに、ルーマニアやハンガリーの衣装を着て20人で出場。それが、この会社で働きたいと思うきっかけとなった。
 
 入社面接では、勉強の話ができるような成績でもなかったため、ダンスや演劇の話ばかりしていた。二次面接で人事部長から「この場で踊れますか?」という質問を受ける。大学の入ゼミの面接で踊ったという話は笑い話で聞いていたが、まさか、入社面接で踊らされるとは。人事部長が笑ってくれ二次面接はパス。最終面接でも踊らされたら、社長を筆頭に全役員がシーンとしてしまった。「完全に落ちたと落胆しましたが、なぜか採用になりました(笑)」
 
―震災ー

 山田さんの人生観が大きく変わったのは二度の震災だと言う。
 
 「阪神大震災では、板宿の実家が半壊、親父の工場も全壊でした。それを知った会社の上司や先輩、仲間は、家の建て直しのための義援金を知らないところで集めてくれていました。震災から二週間後に神戸に帰りましたが、その時に義援金を手渡され、さらに、ある先輩は、『義援金は出せないけど、阪神の青木駅からは電車が不通になっているから』と、御自身の折り畳みの自転車を持たせてくれました。お気持ちが本当に嬉しかったですね」
 
 「それまでは『お客様のために』という事だけを考えて仕事をしていたように思います。でも、この時は、『働く仲間があってこその会社であり、事業である』と、心から思いました」。その後、山田さんは労働組合の仕事を頼まれ、専従として仲間のために8年間、組合活動に没頭した。
 
 その後、商品開発の仕事をした後、現場オペレーションの部長になった翌年に、東日本大震災にあった。
 
 地震・津波・放射能被害・計画停電。あまりの被害の甚大さに、従業員の間には「こんな状況の中で、自分たちの仕事は、存在意義があるのだろうか」と不安が広がった。
だが、山田さんには確信があった。「今はまず安全や食べ物の確保が最優先。でも、その次にやってくるのは精神的な支え。神戸の時がそうだった。我々のビジネスは必ず復興の役に立つことができる」
 
 パーク再開に向かって、従業員から義援金を募るだけでなく、復興を願うリストバンドをゲストに販売した。寄付する仕組みを提案し、実現したのは山田さんだ。そのリストバンドには「WE ARE ONE 心はひとつ」と書かれている。その後も会社では、さまざまな支援活動を続けているが、中でもパークで演奏しているバンドが東北に出向き、地元の吹奏楽部の中学生たちと一緒に演奏会を開催する活動は大変喜んでもらえている。
 
 大学受験の際、経済学ではなく、人間科学を専攻した時の思いは、今も続いている。
その思いを、現在の人事部の仕事でも表現すべく、日々奮闘している。

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―変化ー

 最初のきっかけを作ったのは、山梨の短大に勤める妻の言葉だった。「千葉で田んぼを借りてお米を作りたいの。手伝わなくてもいいけど、できれば週末に車での移動をお願いできないかな」。2年前のことだ。
 
 毎週一時間以上かけて田んぼまで行くのなら、自分も手伝ってみようかと始めてみた。やってみると仲間もできて、結構おもしろい。そしてなにより、収穫したお米をみんなで食べると本当においしかった!
 
 震災後、山田さんの中で何かが少しずつ変わっていた。
 
「資本主義、市場経済では効率と利益を求めざるを得ません。だからプロセスは短ければ短いほどいい。でも、本当の楽しみは、結果ではなく、プロセスの中にこそあると思い始めたのです」
 
―週末移住ー

 今、山田さんは、プライベートでは自給自足できる生活を目指している。
 
 千葉で借りていた田んぼは50㎡だったが、昨年は千葉ではなく、妻の勤務先にも近い山梨県の都留市に、一反八畝(1,800㎡)の田んぼを借りた。都留は、大好きな富士山にも近い。夫婦にとって、趣味と実益を兼ねた場所でもあり、老後も見据えた移住先として選んだ土地だ。 都留で知り合った仲間と共に、一反八畝の田んぼを、無農薬、無肥料、手植え、手刈りでやりきり、500キロ以上収穫した。
 
「田んぼや畑をやると、謙虚になります。人の都合ではどうにもならないことだらけです。
田植えや稲刈りでは、たくさんの仲間が手伝いをしてくれます。この前は馬を使って畑を耕しました。子どもも喜びますが、それにもまして大人が大喜び。農体験を週末のレジャーではなく、みんなにも生活の一部として取り入れて欲しいと思っています。そのためには、子どもではなく、大人の価値観の幅を広げたいんです。」


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 実は、昨年「狩猟」の免許もとった。現在、日本では鹿やイノシシの数が増え、里山での森林被害や農作物被害が問題になっている。自然を活用しつつ暮らしてきた日本人の生活スタイルが明治以降変化し、里山が活用されず、崩れてきている。猟師も急速に高齢化が進んでおり、数も年々減っている。ならば自分がと免許を取得し、今年、猟友会の一員として、初めて猟にも参加した。
 
 「僕の場合、鹿やイノシシの数を減らすのが目的ではありません。自分で食べるものは、自分で責任をもって獲りたいんです。命をいただくことの重さを感じながら、感謝して食べる。人間社会も、自然の一部として、循環可能な社会であり続ける必要があると思います。」


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鹿肉はその場でさばき、猟師たちで公平に分配する

 毎週金曜日、仕事を終えるとその足で都留まで車を飛ばす。夜の八時からは都留で地元の仲間に得意のサルサを教える教室を無料で開催。そして土日は畑仕事に狩猟。
 
「自然に感謝しつつ、楽しく『ていねいに』生きる。忙しいけど、充実しています」
 
 振り返れば、高校時代も大学時代も職場でも、そして今の生活でも「仲間と共感する」瞬間に一番の幸せを感じている自分がいる。「都留の古くて寒い中古住宅と、自然豊かな里山は、私のテーマパークです」と笑った。(取材・文・写真 田中直美 2016年4月)

 
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