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Face to Face No.119 「防衛医学を生きる」

F2F119清住哲郎さん
38回生 清住哲郎(きよずみ)
垂水中学卒
ESS、図書委員会
防衛医科大学校卒
防衛医科大学校教授
防衛医科大学校病院救急部長

ー防衛医科大学での成長ー
 清住さんは4人兄弟の3番目。兄は17才上、姉は15才上。清住さんの4才年下には妹がいる。今も誰がいとこでだれが甥っ子姪っ子なんだか、「自分でも時々分からなくなりそうです」と笑う。
 「中学時代は運動が苦手でした。でも長田の周回走で走っているうちに、長距離は人並みよりちょっと頑張れる自分に気づきました」
 防衛医科大学校(以下、防衛医大)に進学した理由をよく尋ねられるが、実は自分でもはっきりわからない。長田の同期三人(だったと思う)で、なんとなく気づいたら一緒に受験していた。大正生まれの父が「絶対に行くべきだ」と後押ししてくれたことも大きな力になったと思う。父は学徒出陣の直前に終戦になった。「国」という存在について、何か思うところがあったのかもしれない。防衛医大には何か未知なる世界が広がっているような気がしていた。宇宙飛行士やパイロットにあこがれるような少年の気持ちにも似ていたように思う。
 
 防衛医大は学費は無料で、少しではあるが給与もでる。そして6年間の全寮制。生まれて初めての団体生活。初めて経験した「体育会の先輩、後輩」の世界。18才から24才まで、日々成長の毎日だった。何時何分に何を着てどこに集まれ、という分刻みのスケジュールでスタートした医大時代。苦痛というほどではないが、何かに追い立てられているような毎日。でも、それも半年で慣れた。
 入学してすぐの体力測定の長距離走ではぶっちぎりの一位!卒業ギリギリまで走り込んでいた周回走の大いなる効果を実感した。
 「防衛医大に入ったことが、私の人生の最初の大きな転機となりました。18才で完全に親離れし、精神的にも経済的にも自立したのです」
 医大での6年間は、医師としての知識、技術はもちろんのこと、それ以外の大人の社会人として大切なことの全てを学んだと思う。
 体育会系と文化系、両方の部活がデフォルトの雰囲気の中、清住さんが選んだのは柔道部と合唱部。妻は合唱部の三年後輩。「創部して合唱部はまだ5年でした。部員同士のカップルの中で最初にゴールインしたのは私たちです(笑)」
 「何かを協力してみんなで成功させる」快感を覚えたのは、学園祭の委員長を務めた時だ。昭和から平成に変わった年度で学園祭は前年度は中止になっていた。予算は2年分ある。何か特別なことをやりたい。後夜祭で花火を打ち上げることになったが、これが想像以上に大変だった。消防署への申請、近隣住民への説明と承認の獲得。もし失敗したらどう謝るのか、まで考えた。
「スタッフ全員が、自分が何のために今これをやっているのか理解すること」。これは救命救急の指導医としての今にもつながる貴重な学びとなった。
 
ー医官としてー
 医師となって三年目に鹿児島の鹿屋(かのや)航空基地に海上自衛隊の医官として赴任する。
「隊員が2000人ほどの部隊に衛生隊(医務室)があり、スタッフは10数名。医師は三年目の私一人。にもかかわらず、衛生隊長(放射線技師)は私を医師として信頼し守ってくれました。自分が必要とされているという実感は、医師である自衛官としての『責務』を『やりがい』と感じることができた瞬間だったのです」。この隊長との出会いが人生で2番目の転機だったと清住さんは言う。
 
 海外実任務は3回。ゴラン高原派遣輸送隊(本部医官)。インド洋補給支援活動(外科長)。そしてソマリア沖アデン湾海賊対処行動(医務長)。三回目の任務は第一次隊だったので前例としての情報が何もなく、緊張度が最も高かった。メンバーに誰を選ぶか?持って行く医薬品の量が限られる中、何を持って行くか?足りない時は誰に頼めば一番早いか?戦闘による負傷者への対応も念頭に入念な準備をしたが、幸いそのような事例は起こらなかった。
 
 東日本大震災では、海からの医療コーディネートに従事した。最初の一週間は不眠不休だった。正しい情報の把握が一番大切なのだが、とにかくどこからも正しい情報が入ってこない。長期に渡る避難所生活で、日々具合の悪くなる人がどんどん増えていくという印象だった。陸路では孤立してしまった地域や離島に、ヘリコプターやホバークラフトを使って、全国から集まった医療チームをどの艦艇に乗艦させてどこに派遣するか、パズルのピースを合わせるような作業だった。
 
ー防衛医学ー
 現在、清住さんは、防衛医科大学校病院で救急部長・救命救急センター長として臨床の場に立ちつつ、大学では救急医学に加え、防衛医学を教えている。
 「防衛医学とは、防衛省自衛隊において必要となる医学的内容のことです。具体的に言えば、銃傷や爆傷。化学兵器、生物兵器による障害への対応、放射線や核兵器による障害への対応などです。もともと私の専門は救命救急ですが、防衛省内のさまざまな任地で勤務する中で防衛医学をもう一つの自分の専門にするに至りました」
 過酷な現場でより良い医療を実践していくためのシステム構築、教育・研究への取り組みを目指している。
 40才を超えてからフルマラソンを走るようになった清住さん。「もうひと頑張り」の意識の原動力になっていると言う。
「若い時は、とにかくいろんなことにチャレンジしよう」。清住さんから現役長田生へのアドバイスだ。
(2023年12月 写真、文 田中直美)

 F2F119キャップ
実際に勤務した部隊/施設、乗り組んだ艦艇の「帽子」(部隊帽、識別帽、Squadron Capなどど呼ばれる)

編集後記
 清住さんのお子さんは三人。現在27才、25才、24才。「私は全国各地の基地に赴任していたので、妻は今で言うところのワンオペ状態ですね。腕は2本しかないのに小さい子どもが三人。本当に大変だったと思います。感謝しています」
 「ありがとう」と「大好き」は若い頃から意識して言い続けているとか。合唱部ゴールインカップル第一号は模範カップルですね!
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