Face to Face No.115 「河の流れのように」

33回生 郡司聡
塩屋中学卒
山岳部
東京外国語大学
日本ペンクラブ専務理事
KADOKAWA顧問
角川文化振興財団顧問など
高校時代は山岳部でインターハイへ。世界の政治にも興味をもった学生時代。やがて大ヒットをとばす名編集者へ。最後は「世界一のレストラン」の共同経営者!? そんな振れ幅の大きい郡司さんにお話しをうかがってきました。
ー高校時代ー
長田生お馴染みの六甲縦走。山岳部だった郡司さんは担任の先生に「お前が先頭でペースつくれよ」と言われていたのに寝坊して遅刻。クラス全員の前で担任だった英語の先生にビンタを受けたのが高一の最初の思い出だ。
「二年時にはインターハイにも出た山岳部だったので、30キロになるまでザックにブロックや帆布でできた重いテントをつめ、週末ごとに六甲山や摩耶山に登っていました。その後の人生の体力は周回走と練習登山でついたような気がします」
高三の選択授業の世界史では、世界史の時間に内職したい級友たちに頼まれこんなことも。「先生はゴルフ好きで毎週末にはゴルフに行かれてたんですよ。なので最初にちょっとゴルフの成績の話しをされる。僕は一番前の席で先生をうまくのせて、その雑談を2・30分に引き延ばしてました。僕は受験に世界史必要だったんですけどね(笑)」
そんなお茶目な行動の一方で、社会の動きにも関心があった。小田実さんの「何でも見てやろう」を読んで以来、彼の文章が掲載されていた雑誌「世界」を気の合う友人と読んでいた郡司さん。小田実さんが大阪で開いていた反戦集会には授業をサボって参加。「生意気な発言をしたりしていました」
受験したのは東京外国語大学の「ウルドゥ語」科。必ず「なんで?」と質問される。
「大学では、社会にでてから役にはたたないことを勉強したい」という、ちょっと斜に構えた高校生らしい理由が一つ。
もう一つは、高校時代に勃発したイラン革命。自分は報道されていることだけは知っているが、実際には何が起こっているのか?何で起こっているのか?全くわからない。彼らが使っている言語や宗教を知らなくては本当のことはわからないのでは?
井筒俊彦の著書「イスラム哲学の現象」にも強い感銘を受け、イスラムという宗教が、意識の世界をどうとらえられているのかに興味を抱いていたのだった。
ー銃口ー
大学進学当初はアジアアフリカ作家会議をボランティアで手伝ったりしていたが、「大学に慣れてぐうたら化」した頃、ジャズ研究会に入部。サックスを吹いていた。ジャズ研の先輩に紹介された「おいしいバイト」がラジオ番組の構成の仕事だった。だんだん仕事を任せられるようになり、太田裕美さんの2時間の深夜生番組や、先般亡くなられた坂本龍一さんの番組も担当するようになった。面白くなってついついのめり込み、大学4年を3回やるはめになってしまった。
これではいけない。一度区切りをつけようと向かったのがインドだ。イスタンブールまでは飛行機で。そこからはバスや列車を乗り継ぐ二ヶ月ほどの旅を予定していたが、飛行機を降りたら荷物が行方不明。いきなりの一週間の足止めとなった。ようやく荷物も届きイランに向けて出発。当時、イランはアメリカ人は入国禁止になっていたが、イスタンブールで知り合ったカナダ人、ニュージーランド人の三人で路線バスを乗り継ぎ乗り継ぎ旅をした。だが、カスピ海沿岸の街でどうにも前に進めなくなり宿を探したが、白人二人がアメリカ人に見えるらしくどこも泊めてくれない。うろうろしていたら革命軍のジープがやってきてジープに乗せられ銃口をつきつけられた。「彼らはペルシャ語なら通じました。ペルシャ語はウルドゥ語の隣接言語なので少しは話せる。必死で言葉を組み立て、僕らは学生でただ旅をしているだけ。怪しくない、と伝えました。死ぬかもと思いましたが、何故かパニックにはならず頭は冴えざえとしていましたね」
兵士の一人は郡司さんたちと同じぐらいのまだ若い青年で「祖母が宿をしているから今夜はそこに泊まってとっととここを離れろ」と宿に案内してくれた。無事に解放されはしたが、銃口の冷たさを知った体験だった。
ー就職ー
帰国したのは12月、学生課に顔をだしたら事務の女性が「角川書店」がアルバイトを募集しているよ、と教えてくれた。結局、これが就職とつながり本の編集に取り組む仕事人生につながっていく。
ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」は郡司さんが編集を手がけた。映画化もされ一大ブームを巻き起こしたので読んだことのある長田卒業生も多いだろう。「エージェントから持ち込まれたまだ書籍化されていない原稿を読んで面白いと思いました」
「編集の仕事をする時、ターゲットとなる読者は目の前にいるわけではない。でも、こういうのを面白いと思う人もいるはずと予測しているわけです。目には見えない相手との駆け引き。だからこそ大物を釣り上げた時の喜びは大きい」
編集の仕事を続ける中、さまざまな分野の一流の著者との出会いがあったが、なかでも水木しげるさんとの親交は心に残る。
「出会いはほんの偶然でした。他の編集者が、水木先生のところへ行くというので、ちょうど手が空いていた僕は同行させてもらったんです。先生の家に行ったら『一人30分』なんて張り紙がしてある。にも関わらず、僕が荒俣宏さんを担当しているとチラッと話したことで、君は残れと言われ、そこから4時間、一気に意気投合してしまったんです」
「当時の水木先生は、世間が妖怪に関心を持っていないことに義憤を感じておられた。文化人類学的アプローチをされたいと思っていた。デビュー前の京極夏彦さんや荒俣さんを巻き込んで妖怪雑誌を立ち上げたいと考えておられたんですね。そそのかされて、けっきょく僕が世界で唯一の妖怪雑誌『怪』を創刊することに。売れるかどうかもわからなかったので創刊号は「零号」。それなら続かなくても洒落になるでしょ。それがその後の妖怪ブームの始まりでした」
水木しげるさん、荒俣宏さんの行く、ニューギニア、カリブ海、ブータンなどへのフィールドワークにも同行。「楽しい時間でした」。水木しげるさんの葬儀委員長は郡司さんが務めた。
ー世界一のレストランー
KADOKAWA(2013年に社名変更)で文芸局長執行役員を務めながら、もう一つ得難い経験をした。
デンマークの世界一予約のとれないレストラン「noma」のシェフ、レネ・レゼピが東京に店を出す際の共同経営者になったのだ。
(郡司さんが出資したわけではなく、KADOKAWAの子会社社長として参画)
レストランの名前は「INUA」世界中から料理人を集め、オープンして一年で「ワールドレストランアワード」で世界一を獲得。二年目にミシュラン二つ星にランキング。キムタクと鈴木京香さんが主演した「グランメゾン東京」で尾上菊之助演じるライバルシェフの料理でも登場した。だが三年目にコロナ禍で閉店というジェットコースターを経験した。
「お客様は7割ぐらいが外国人でした。ベッカムがプライベートジェットで来たこともあります。それだけに、コロナ禍で外国からのお客様の来店がなくなると続けることはできませんでした」
いったいどんな料理だったのだろう?「普通の料理は見た目や香り、味は過去の経験からはみ出ないですよね。でも彼の料理は全てが過去の経験からはみ出ています。いったい何が起こっているんだ?というレベルの体験です。不思議の国に迷い込んだような、心地よい酩酊感。森の住人に招かれて、食べたことのないものを食べているような、そんな感じでした」
偶然にも、コロナ禍収束の中、記者が取材中に京都のホテルで期間限定で「noma」が出店していたが、わずか6分で世界中からのオファーで予約が埋まったそうだ。
「はみでることを怖がらないで、思いっきり振り切れてみてください。自分の振り幅を若い時に知っておくのは良いこと。びくびくして可動域をせばめないで」。これが郡司さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2023年5月 取材、文、写真 28回生田中直美)
編集後記
「成り行きに任せた」郡司さんの歩んできた道は、どこでも可愛がられ、その才能を開花させてきたように感じました。長田時代によくつるんでいたお友だちは、以前f2fにもご登場いただいた三浦均さん https://nagatatokyo.fc2.net/blog-entry-209.htmlと、NHKの「プロフェッショナル」に登場された大西寿男さん https://www.nhk.jp/p/professional/ts/8X88ZVMGV5/episode/te/8XW78LPXYG/。高校時代の会話を聞いてみたかったです。
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