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Face to Face No.113 「二人の師に導かれて」



高19回生 矢野司空(耕司)
高取台中学 卒
柔道部 書道部 
広島大学文学部中退
1976年浄土宗僧侶
演奏活動:海外30カ国以上にて毎年公演
NHK教育テレビ「こころの時代」に出演

 今年74歳になる矢野さんは、浄土宗の僧侶であり、プロの尺八奏者でもある。三月には湊川神社、神能殿で、長田高校から共に広島大学に進んだ中村哲さん、川本剛空さんの三人で、尺八、居合、書をコラボした舞台を踏む。
 三人はそれぞれ僧侶、学者、僧侶として研鑽の道を積んできたが、それと同時に和文化の尺八、居合、書をもそれぞれが極めてきた。
 「三人三様の取り組みではあるが、共通するのは我にとらわれない自然の妙であり、命の根源体感(中村哲 談)」とのこと。矢野さんに、長田時代、そして広島大学時代を経て尺八を極めながら僧侶へ至る道筋をお聞きしてきました。
 
-古武道を通じた出会い-
 三人が出会ったのは長田でだが、中村さんと川本さんは飛松中時代からの友人だ。飛松中学で、「広島大学出たての新任の岡邉(旧姓 山下)先生」から柔術の指導を受け、古武道に興味を持つようになったのが中村さんと川本さんだ。
 
 矢野さんと川本さんは、母親同士が友人だったことから高校二年で同じクラスになったので、川本さんが指導を受け続けていた岡邉先生の元に矢野さんも通うことになり、こうして岡邉先生を中心に三人の縁が繋がった。
 
 大学受験を目前に控えた高校三年生の12月に、三人は岡邉先生のご自宅に遊びに行った。矢野さんが「広島大学を目指そうかと思う」と話すと、「広島大学には素晴らしい先生がおられる」と見せてくださったのが、岡邉先生に送られた山本空外師からの暑中見舞いの葉書だった。
 
 「この暑中見舞いの葉書の墨痕に私は衝撃を受けました。当時、私は川本くんに影響を受けて書も学んでおり、空海の字の模写などにも取り組んでおりました。山本空外師の墨痕に魅せられた私は、進学に感じていた迷いを払拭し、師のおられる広島大学に進学を決め猛勉強したのです。当初、京都大学を目指していた川本くんまでもが暑中見舞いの葉書をみて広大に希望進路を変更。もともと広大志望だった中村くんと三人揃って広大に進学したのです」

FtoF113中村哲さん
中村哲さん

FtoF113山本剛空さん
川本剛空さん

ー山本空外師ー
 「山本空外師は、私たちが大学に進学した頃はおそらく60代の前半だったと思います。今74才の僕たちが振り返ると、先生も、まだお若かかったのだなと思います(笑)。もう広島大学の名誉教授でした。もともとは西洋倫理学の教授ですが東洋的なことも教えていらした。僕たちは先生の書に感動したわけですが、先生はいわゆる『書家』ではなかった。先生にとって書は自分の世界を表現する手段だったのです。人間本来の在り方をいろんな方面から探求されていました」
 
 矢野さんたち三人は山本空外先生の自宅を訪問しては、著名な拓本や書を拝見した。二年次の夏休みには「とにかく師の話を聞きたい」と、先生が講師をされているという信州鉢伏山の道場を、矢野さんは一人で訪れた。
 
 「道場まではバスで近くまで行き、そこから歩きます。目指す場所が近づくにつれ、ポクポクと木魚の音がしてくる。実は念仏道場だったのですが、僕はそのことは事前に全く知らなかったし、師も念仏布教に関して話されたことはなかった。中を覗くと、三、四十人ほどの若い人が全員で木魚をたたいて念仏を唱えている。びっくりしましたね。これは思っていたのと違うと帰ろうとしましたが、バスは1日に二便しかなく、さっき乗ってきたのがその二便目。仕方なく最後列に僕も座り、仕方なく木魚をたたき、真似ながら念仏を唱えました」
 
 10分ほどで飽きてしまったが、出るに出られず一時間ほど足の痛みも我慢していた念仏が終わった瞬間、とてつもない開放感につつまれた。そして、山本空外上人が登壇され仏教と念仏についてのお話がはじまった。その言葉の一つ一つが心に沁みる3日間を矢野さんは過ごした。
 
ー托鉢の旅ー
 死に物ぐるいで勉強して入学した大学だったが、全国的に大学紛争の嵐が吹き荒れる中、板書中心の授業に疑問を抱くようになり三年次には一年間の休学届けを出して日本を放浪。音楽だけではなく精神的な何かがあると感じていた尺八に取り組もうと、そのまま広大を中退して東京へ。当時世界的な尺八奏者だった横山勝也師匠の元に弟子入りし、芸大以外のただひとつのプロ演奏者への登竜門だったNHK邦楽技能育成会も卒業した。
 
 しかし、矢野さんはここで再び道に迷う。「プロとしての音楽は自分が目指していた音楽とは中身が違う。何のための尺八なのかわからなくなってしまったんですね。自殺まで考えました。どうやって死のうかと新宿公園でベンチに座って考えていた時、突然に『山頭火(自由律俳句を作りながら全国を托鉢した)』を思い出したのです。そうだ、尺八一本持って托鉢の旅に出ようと思い浮かびました。そこで坊主でもないのに袈裟を一式買い揃え、托鉢の旅にでたいと空外師を訪ねたら袈裟に一筆書いてくださり、僕は四国に渡ったのです」。23歳と3ヶ月の時だ。
 
 「このまま野垂れ死にしようかとも考えていたのに、気づいたら色んな人に助けられ、自然の中で命について考えていました。徳島に辿り着き、船で和歌山に渡り泊めていただこうと門戸をたたいた無量光寺は、偶然にも空外師にご縁のあるお寺で、玄関には空外師の書がかかっていました。そこの住職に勧められて高野山の持統院で開催されるという5日間の別時念仏会に参加することにしたのです」
 
 「住職に連れて行っていただいた宿坊が、高野山の持統院。ここも偶然でしたが高校時代に川本君の家族と一緒に泊まった寺でした。最後の夜、徹夜念仏で一人で木魚をたたき続けました。明け方、光をいただいたご本尊を見た時に、一瞬にして後ろ向きだった気持ちが楽になったのです」
 
 東京に戻った矢野さんは、そこで現在の奥さんと出会い結婚。生活をささえるために二年間のサラリーマン生活を送る。朝早くから夜遅くまで懸命に働く中、給料もあっという間に上がったが、やはりこれは何かが違う。山本空外師のような僧侶になりたいと師を訪ね、そこから講習を受け阿久比町谷性寺住職になったのは30歳の時だった。
 
ー最後の公演ー
 3月25日の公演は、矢野さんが癌を乗り越えて演奏活動を再開した記念と98歳で亡くなられた山本空外師の23回忌への追恩もこめられている。「これまで生きてこられたことへの感謝と現時点での生存体験の証としての、最初で最後の公演です(中村哲 談)」
 矢野さんは三年前にステージⅣの大腸癌が見つかり、大腸癌を手術。転移した肺がんの抗がん剤治療、転移した肝臓癌の手術も2回、そして今も抗がん剤治療を継続中だが、尺八を演奏できるほどに復活した。
「癌がみつかった時点で5年後の生存率は20%以下と言われました。あとどのくらい生きるか、ではなく、明日死ぬかもしれないという前提で、ただ日々を充実して過ごすことだけを考えています。ある意味、ほとんどの夢は叶えてきました。来たる時間を来たるように生きる。ただそれだけです」
 
 現役長田生へのアドバイスは?「アドバイスなどありません。ただ自分を信じて前向きに生きてほしいと思います」これが矢野さんからお預かりしたメッセージだ。
(2023年2月 取材、記事、写真 田中直美)

FtoF113共演
インディアナ大学に留学中だった中村さんに居合の演舞の依頼があった。なんと、インディアナ大学の関係者のギターリストが矢野さんと名古屋で共演したことがあると言う。話しはとんとんと進み、寄付が集まり、矢野さんの尺八と中村さんの居合のコラボが成立した。地元テレビ局で放送までされた。1998年のことだ。

編集後記
 今回は、矢野さんのお話を中心に、ご友人の中村さんにもご参加いただいてzoomでインタビューさせていただきました。闘病中とお聞きしていた矢野さんは、信じられないほど顔の色艶が良く、声もよく通り驚きました。矢野さんたち三人の公演の前日が、偶然にも同じ神能殿での寺門さんの「或能川」の上演です。奇しくも長田OBの演目が2日続きます。

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