「Face To Face」NO.98「社会のために働く」

高27回生 平木博美
歌敷山中学卒
大阪大学法学部
ソニー
神戸市議会議員
神戸大学キャリアセンター
はつらつとヨーロッパを駆け巡り、英語を駆使して営業活動を展開した若い時代。「家族でいる時間」をもっとも大切にしながら「社会のために働く」という想いで活躍した長いボランティアの時代。「社会のために働く」の延長線上に突然舞い込んできた、全く今まで縁のなかった「政治家」の時代。そして、人生の棚卸をして、更に少しでも若い世代の人の役に立ちたいと考えている今。そんな素敵な人生を送っている平木さんにお話を伺ってきました。
―企業人として―
小中学校は神戸で過ごしたが、高校進学時に父親の転勤で東京へ。高校3年生の時に、再び父の転勤で神戸へ戻り、長田高校に編入した。「幼い頃からあこがれていた長田高校に通えるようになってとても嬉しかったことを覚えています」
大学3回生の時に、大好きだった英語を身につけたいとアメリカに8カ月留学。卒業後はソニーに就職した。ウォークマンが世に出た年だった。女性として初の海外営業担当を拝命。若い女性がたった一人で海外出張するのは異例の時代だった。大学時代のクラスメイトだった夫とは結婚したばかりだったが「そんなことをさせてもらえるのは幸せなことだ」と応援してくれた。
オランダ・ベルギー・スイスを担当。とりわけオランダでは3年間で売り上げを7倍にするという大活躍だった。上司の勧めで、通訳・同時通訳の訓練も受け、社内戦略会議では同時通訳も担当した。
だが、妊娠を契機に退職を決意する。「子どもは3歳までどうしても自分の手で育てたい」と思っていたが、男女雇用均等法以前のその時代では、女性には「復職」という選択肢はなかった。「後進の女性のために、ぜひ育児休暇と復職制度を、とお願いしました」
ソニー創設者の盛田昭夫会長・大賀典夫社長時代のソニーだったが、このお2人に可愛がられていた平木さんは「制度を整備するからぜひ帰っていらっしゃい」と声をかけていただいたというから、その有能さは想像するに難くない。
2人目の子育てが一段落する5年目には復職を考えていた平木さんだったが、思いがけず4年目に夫の転勤でアメリカへ行くことになる。「家族と一緒の時間を大切にする」と決めていた夫婦は家族全員でカリフォルニアへ。帰国後、復職を求められたものの、結果として、企業人に戻ることはなかった。
盛田会長と
現地代理店メンバーと
―アメリカでの事故―
「せっかくアメリカに来たのだから、アメリカでの出産と子育ても経験してみたい!」と3人目の子どもをアメリカで出産。その末娘が1歳を迎える前にグランドキャニオンに旅行に出かけた帰りに、大きな交通事故が起きてしまった。
前夜より高熱と腹痛で体調を崩していた夫に代わり、平木さんが砂漠の中の高速道路を運転していた。突然、車体が沈んだような気がしたらハンドルをとられ、そのまま砂の斜面を横に3回転して止まった。シートベルトはもちろんしていたのだが、運悪く、長女は窓の外に投げ出され、全身を500針も縫う大けがだった。
手術後に当時6歳だった長女が最初に言った言葉が「ママ、ごめんね」だった。事故が起きた時、いつもママに前を向いて座りなさいと言われていたのに、たまたま後ろをみていた。そのためにこんな大けがをして、両親に心配をかけてしまったと思ったのだ。
娘の傷が癒え、学校に通えるようになったあとも、平木さんの心には一つの大きな重荷があった。夫婦の会話が以前のように弾まなくなっていたのだ。「事故は私のせいだと責めている?」と思い切って話を切り出したところ、実は夫は「自分の体調不良のせいでこんなことになってしまった」と自分を責めていたこと、そして、長女もまた「私が後ろを向いていたせいで」と自分を責めていたことを知る。心を打ち明け話し合ったその日から、家族には以前の明るい笑い声が戻った。
―人のために―
この事故では、多くの人の温かい思いやりと、見返りを求めないボランティアに助けられた。この事故に限らず、アメリカの人たちは親切の見返りを求めなかった。日本の慣習に従って、ちょっとしたお礼の品などを持っていくと必ず言われたのが「Pay it forward!」という言葉。「恩返し」も「恩送り」も適切な訳ではないように感じた。
「あなたが、次に困った人に出会った時に、手を差し伸べてくれれば、それが私へのお礼になるのよ。その気持ちを次につないで!」。そういう意味だと実感するようになった。
事故の時、病院近くのホテルに泊まり、末娘の紙おむつを買いに行こうとした夫に、ホテル従業員が自分の車を使ってと申し出てくれた。そして「今日、あなたに私の車を貸してあげられるこんな機会に恵まれたことに私は感謝している」と言った。
これもまた、「Pay it forward!」の一面と感じた。
このアメリカでの経験を経て、平木さんはますます「社会のために働く。人の喜ぶ顔をみる幸せ」を実践していくようになる。
夫の仕事でのカリフォルニア赴任時も、日本の川崎に帰国した時も、神戸に戻った時も、「家族一緒」は変わらなかった。神戸に戻った時は高校生の長女を筆頭に学齢期の子どもが3人。夫の単身赴任を大多数の人は選択するだろうが、夫婦の信念はずっと同じだった。
この専業主婦時代の平木さんの社会貢献活動は書き出すだけでも大変だ。
アメリカでは「日本人保護者の会」設立。会長に就任。外国人保護者連絡会の会長を務めながら、外国人子弟のための英語教育プログラム見直し、麻薬中毒撲滅委員会の理事に就任。川崎市立東小倉小学校では、PTAを皮切りに、小学校における英語活動プログラムの企画・立ち上げ。神戸に戻ってからは善意通訳の会・会長。2002年ワールドカップボランティア、国連防災世界会議事務局スタッフ、などなどなど。
そのほとんどの活動が無給のボランティアだった。
―政治の世界へ―
平木さんが49歳の時に、再び大きな転機が訪れる。35年間神戸市議を務めた浜本りつ子さんの後継候補にとご本人から懇願されたのだ。
「青天の霹靂でした。今まで、政治に関わろうと思ったことなど一度もなかったし、国会での罵詈雑言を聞くのも大嫌いでした」
10数年前から引退を考え後継者を探していた浜本さんに平木さんを推薦したのは浜本議員の息子さんだった。芦屋大学での仕事ぶりを見て、後継者問題に長年悩んでいた母親に「この人なら」と引き合わせる場を何度か設けたのだった。
受けるつもりは全くなかった平木さんが、帰宅後、ことの顛末を夫に報告した時の第一声は「いつかそういうことになるだろうなと思っていたよ。是非受ければいい」だったそうだ。
その後、「神戸市議は国会とは違うのよ。神戸市議では党派を超えて、神戸のためだけを考えて仕事ができる。私はあなたに、神戸市民のために何がいいのかを判断してほしいの」の言葉に、ついに「それなら私にもできるかも」と心を動かされる。
平木さんの両親は、50歳手前で政治の素人の娘がいまさら政治家になるなんて、大反対だった。だが、夫はこの時も圧倒的に応援・賛成。両親を説得してくれた。
「世の中に求められているというのは、とても素晴らしい話ではないですか!」と。
こうして、3期12年を市議として全力で走った平木さんは、昨年の6月をもってきっぱりと引退した。
引退を決心した平木さんは、ふとしたきっかけで「キャリアコンサルタント」という国家資格ができたと知る。ひょっとしたら、若い人の役に立てるかも、と勉強。見事一発合格した。この試験勉強では、はからずも自分の人生の棚卸をしたような結果ともなったと言う。
「またご縁をいただき、昨年7月から神戸大学のキャリアセンターに勤めることになりました。人と関わって、人も私も笑顔になるのが好き。少しでも、若い人のお役に立てたら嬉しい」
「今しかできないこと、目の前にあるチャンスに前向きに取り組んで!」平木さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2020年6月 取材・文 田中直美 写真・ご本人提供)
編集後記
インタビューの最後に「夫と出会えたことは、私の人生の最高の宝です」との言葉。感動してしまいました。平木さんは私と小・中・高が同じで一年先輩。美人なのにありえないようなハスキーボイス。ソニー時代、大賀社長は平木さんのことを「ミスター」と呼んでいたとか。Face to Face No.87でご紹介した村田英理子さんは平木さんの末娘。親子二代でご登場いただきました.。
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